聖書のみことば
2023年5月
  5月7日 5月14日 5月21日 5月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月21日主日礼拝音声

 十字架
2023年5月第3主日礼拝 5月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第15章21〜32節

<21節>そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。<22節>そして、イエスをゴルゴタという所―その意味は「されこうべの場所」―に連れて行った。<23節>没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。<24節>それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。<25節>イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。<26節>罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。<27節>また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。<28節>
<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>
こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。†<29節>そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、<30節>十字架から降りて自分を救ってみろ。」<31節>同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。<32節>メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 ただ今、マルコによる福音書15章21節から32節までを、ご一緒にお聞きしました。主イエスがゴルゴタの丘に連れて行かれ、十字架に磔にされたことが語られています。
 まず21節に「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」とあります。当時、十字架によって処刑される死刑囚は、人々への見せしめとして自分が磔にされる十字架の横木となる丸大を背負って刑場まで運んで行くことが決められていたようです。
 ところが主イエスがゴルゴタの丘に向かって行く途中で、一つのハプニングが起こりました。前の晩から徹夜で裁判を受け、疲れ、鞭打ちによる衰弱のため、主イエスは丸太を運べなくなり、組み敷かれてしまったのです。ちょうどその時、そこに一人の人が通りかかりました。北アフリカのキレネ、今日のリビアの出身でシモンという名の人でした。「田舎から出て来て通りかかった」と言われていますので、元々主イエスと関わりがあった人ではないようです。その人をローマの兵士たちは槍で脅し、有無を言わせず、主イエスの横木を担がせました。シモンにはこの丸太を背負わなくてはならない義務もなければ責任もなく、主イエスの弟子でもなかったのですから、彼にしてみればこれはまったく予想外のことで、もらい事故を受けてしまったような出来事だったでしょう。
 しかしこのことがきっかけとなり、シモンは後に信仰を持つことになるのです。ここに「アレクサンドロとルフォスとの父シモン」と息子たちの名前も出て来るということは、2人の息子たちも最初の頃の教会の中ではよく知られていたことを表しています。
 人間的に言えば、シモンが主イエスの十字架を背負わされたことは、まったくの偶然であったと言われるでしょう。けれども、神のなさることに偶然はありません。神の御心のうちでは、シモンが主の十字架を背負わされたことは予め計画されていたことであり、この出来事によって、シモンは主イエスとの関わりを与えられ主を信じる者へと導き入れられたのでした。私たち自身を振り返ってみても、自分がどうして信仰者となったのか、そこには本当に不思議な引き合わせがあったことを思うのではないでしょうか。皆が同じような仕方で信仰に入ったわけではないのです。神がその人その人に相応しい信仰への入り口を与えてくださって、信じる者とされています。
 この日の出来事は、シモンにとって強いられた恵みの出来事でした。もっとも、この時にすぐシモンがこの恵みに気がついた訳ではありません。何年も経って、妻や息子たちと信仰生活を生きるようになって初めて、その始まりを振り返った時に、本当に不思議な神のなさりようがあり恵みの導きがあったことに思い当たるようにされたのでした。

 ところでこのシモンの出来事は、主イエスが十字架にお架かりになる本筋の出来事からすれば幾らか中心の筋を離れたところに起きたエピソードなのですが、話の本筋である主イエスの受難を伝える記事の方は、淡々とした口調で出来事だけを伝えるような形で語られてゆきます。22節には主がゴルゴタの丘に連れて行かれたことが語られ、23節ではエルサレムの婦人たちが用意した、痛みをごまかし軽くすると思われていた飲み物が提供されたけれども主イエスはそれを飲むことを拒否なさったことが語られています。そして24節では、まったく一言で「主イエスを十字架につけた」と事実だけが語られるのです。主イエスを磔にした兵士たちが役得として主の着物をくじ引きしたという、もう一つのエピソードが挟まれた後、25節では主が十字架にお架かりになった時刻のことが語られ、26節ではその十字架の上に「ユダヤ人の王」という罪状を記した捨て札が掲げられていたこと、そして27節では主イエスの左右にも十字架が立てられそこに強盗たちが磔にされたことが、ほとんど何の感情も交えることなく語られています。
 このことは、家で自分一人だけで読む時には、なかなか気づきにくいことかもしれないのですが、黙読をすると、書かれている事柄の方が次々に目に入ってきてその事柄に思いが行ってしまうため、どのような文章のリズムで書かれているかというようなことは、ほとんど気にならないで読んでしまいます。しかし声に出して朗読をしてみると、また朗読を耳で聞いてみると、この箇所が大変コンパクトに、起こった出来事に絞って書かれているということに気づくようになるのです。
 この箇所には、たとえば十字架に磔にされる際の主イエスの御様子などは何も語られません。大変むごたらしい場面ですので、とても忍びなくて記せなかったということなのかもしれませんが、たとえば「毛を刈られる際の羊のように、主イエスは黙って痛みを耐え忍んでおられた」とか、「まるで英雄であるかのように、主イエスは十字架にあげられても堂々としておられた」とか、そういった劇的な書き方をまったくしていないことが、マルコによる福音書の十字架の記事の特徴の一つです。主イエスへの同情を惹くような書き方、あるいは、聞く人を感動させて勇気と情熱を奮い起こさせるような書き方を、この福音書は一切しません。主イエスは、私たちすべての人間の罪のために十字架にお架かりになったのですから、もしも福音書を記したマルコがそういう主イエスを、他の人々の身代わりになった英雄として描こうと思えば、そうできたに違いないのです。あるいは、他の人々に罪の赦しをもたらしながら自分は死んでゆく悲劇の主人公のように描こうとすれば、それもできたに違いないのです。しかしそのように描くのではなくて、むしろ、十字架の出来事とその事実だけを淡々と述べている点に、マルコが伝えようとする意図が示されていることを知らなくてはなりません。
 この場面が劇的な書かれ方をしていないのは、キリスト教の信仰が、私たちの感じる宗教的な感激や感動といった心の動きによって生まれるものではなくて、もっと冷静で、確かな根拠を土台としていることを伝えようとしているためではないかと思います。
 もちろん、本来は神の独り子であり罪と無縁であった方が私たち人間の罪の問題を解決するために御自身の身をささげ犠牲となって下さったという事実に、大いに心を揺さぶられ、感激して信仰に入る人がいるのは事実です。けれども、信仰がそのような私たちの心の事柄、感激する心のありようになってしまうならば、そういう信仰は長続きできないだろうと思います。私たち人間の心はいつも移り気なところがあって、一週間前には大いに感激した筈の事柄が、次の週にはもうまったく自分の心に響かなくなっているようなこともあるのです。
 その例として、使徒言行録13章にはパウロとバルナバがピシディア州のアンティオキアの町で主イエスのことを宣べ伝えた時の出来事が記録されています。そこを読みますと、最初に2人の話を聞いた町の人々が大いに感激して、来週もまた同じ話をしてほしいと願ったと記されています。ところが一週間経って次の週の安息日にも主イエスの話をすると、今度は前回にも増して多くの人が集まったのですが、そこではパウロたちに対する妬みの思いが頭をもたげ、前の週には感激していた人たちが、今度は口汚くパウロのたちの伝える言葉に反論し罵ったという出来事が伝えられているのです。人間の心は変わりやすく、色々なことに影響を受けて容易く変わってしまうものなのです。ですから、もし信仰が人間の気持ちや心の思いに終始するものであったならば、主イエスに対する信仰もきわめて不安定なことになってしまうでしょう。
 マルコは、主イエスによる十字架の御業はそれを聞く人の感情に影響される心の事柄ではなくて、これを聞く私たちの側がたとえどんな心の状態でそれに向かうことがあるとしても、主の十字架の贖いの御業は確かに果たされたのだという事実を伝えようとして、あえて感情に訴えるような言葉を挟まずに、事実だけを淡々と語って聞かせるのです。

 マルコが感情を一切除いて事実だけを伝えようとしているのなら、ここで伝えられている事実には、一体どんな意味が表されているのでしょうか。いくつかの点について考えてみたいと思います。
 まずは「ゴルゴタ」という場所です。これは「されこうべの場所」という意味だと説明がわざわざつけられています。「されこうべ」というのは「ドクロ」のことであり、私たちの頭の中にある頭蓋骨が表に出た状態のことです。ゴルゴタの丘がドクロのような形をして盛り上がっていたのでそう呼ばれたと説明されることも多いのですが、わざわざ「されこうべの場所」と説明されていることを考えますと、単なる地名ではない可能性も考えられます。「されこうべ」の「され」は元々、「晒される」という言葉から来ています。「こうべ」は「頭」です。つまり、頭の中の骨が晒されてしまうと「されこうべ」になるのです。処刑された人がそのまま晒し物にされ、頭の肉が腐って無くなり風雨に打たれると、最後には頭の骨だけが残って、誰の目にも明日に見えるようになります。これは、私たちの人生を覆っているすべての虚飾がはぎとられ、結局はドクロでしかないことが露わになることを表しています。
 主イエスが十字架にお架かりになり私たちの身代わりとなって死んで下さった死が、私たち自身を表すのだと考えるならば、十字架の出来事を見上げる時に、私たちが自分自身を覆っている、私たちの上辺を飾っている虚飾がすべてはぎ取られるということを経験することになります。結局主イエスの御業の前では、私たちは一つのドクロにすぎない者、神の怒りを招いて滅ぼされても仕方ない者だということが露わにされるようなところがあります。必ず死すべき私たちの正体が、主の十字架によって暴かれるのです。けれども同時に、十字架の上では、主イエスが私たちの罪を御自身の側に引き取り、苦しみ死なれるということが起こっています。そのようにして、主イエスが私たちの死すべき死を死んでくださったので、私たちの罪に清算がつけられて、私たちは今、主によって新しくされて生きているのです。
 従って、ゴルゴタという地名には、私たちが主イエスから新しい命を頂かなければ決して生きられない、結局は死すべき者でしかないのだということが示されています。私たちは一人の例外もなく死すべき者たちでしたが、主イエスがその死と滅びの苦しみを身代わりとして受け止めてくださったので、私たちは今、新しくされて生きる者たちとなっているのです。

 けれども、私たちが生きる者となるためには、主イエス御自身はどこまでも、人間の死の苦しみをお受けにならなければなりませんでした。従って、十字架にお架かりになる際に主イエスは、痛みと苦しみを和らげる飲み物を飲もうとなさらなかったのです。仮に主イエスが御自身の痛みが和らぐことを最優先に考えるならば、没薬入りのブドウ酒をお飲みになった方がまだ楽だったかもしれません。しかし、主イエスはそうなさいませんでした。主イエスの経験なさる苦しみは、私たち人間が必ず死すべき者であるという、罪の苦しみです。その苦しみをつぶさに味わい、隅々までを味わい尽くすため、主イエスはあえて苦しみの大きい方を選ばれました。

 そして、主イエスの十字架の上には、「ユダヤ人の王」と記した捨て札がつけられていました。私たちのために苦しみ、罪を背負って死んでくださる主イエスは、まさに「ユダヤ人の王」であり、御自身の民のために御心を砕き仕えて下さる方なのです。
 この捨て札は、元々はローマ総督のピラトが書かせたもので、ピラトのユダヤ人を蔑視し嘲る気持ちが強く表れています。ピラトには主イエスが無罪であることが分かっていました。しかしその無実である人物を執拗に処刑するように群衆を扇動する祭司長たちや、また、その扇動に乗って無実の人間を処刑するように叫ぶユダヤの民衆について、ピラトは心からの嫌悪と侮蔑の思いを感じたに違いありません。
 そしてまた、細かい事情までは分からないものの、同胞によって捕らえられ、何も抵抗するそぶりを見せようとしない主イエスの行動も、ピラトには理解できませんでした。これは先週の礼拝の中でも考えましたが、主イエスが黙っておられるのは、まさに主イエスがユダヤ人の王だからです。主イエスは、偽り多く正しく歩んでいないユダヤ人の王として、神の御前に民の身代わりとなり十字架に赴こうとしておられることを、ピラトは最後まで見抜けませんでした。それでピラトは、主イエスの沈黙を「愚かさと無力の表れ」と考えて嘲りました。そのような主イエスとユダヤ人全体に対する嘲りの気持ちが、捨て札の上に記された罪状書きに示されているのです。「ユダヤ人の王」という言葉、ここには「この男も憐れで愚かだが、同時にユダヤ人たちも唾を吐きかけたいほど、程度の低い連中だ」というピラトの気持ちが色濃く表れているのです。

 このようにピラトはユダヤ人全体と主イエスを嘲っているのですが、しかし、このローマ総督自身は、この処刑がまるでユダヤ人同士の仲間割れの結果であって、自分とは一切関わりがないと思っているのではないでしょうか。実際にはそうではありません。この処刑は、ローマ総督の許可がなければ決して実行できないことです。果たして、そのことにピラトは気がついているでしょうか。そう考えると甚だ疑問です。そもそも「ユダヤ人の王」と捨て札に書かせて、自分は高見の見物を決めこんでいるかのようなピラトですが、しかしこの処刑を許可した者として、ピラト自身もこの出来事の当事者の一人となっているのです。
 しかし主イエスは、そういう一切について、何も口をお開きになりません。「まことのユダヤ人の王」として、神が主イエスに与えて下さるすべての民の罪の身代わりとなって、黙って十字架へと赴いておられます。ピラトは考えもしなかったことですが、結局彼は、知らない間にまことに正しい罪状書きを十字架の上に掲げさせることになっています。「ユダヤ人の王、この者は、その民のために苦しみ、そして死のうとしている」と、ここには記されています。この方の赦しに与らないならばすべて者が結局はドクロにすぎないことを表す「ゴルゴタの丘」に、十字架は立てられ、主イエスがまさに王として執り成しをなさっておられることを、この捨て札は表しています。

 ところで、そのように主イエスが十字架にお架かりになった時、その左右の十字架にも一人ずつ強盗が磔にされました。強盗と言われていますが、この犯罪人たちは、実際には過激派である熱心党の一員で、単なる物取りで乱暴を働いたのではなく、政治犯として処刑されたのだと言われています。両脇にそのような人たちが磔にされているので、遠目からは、この3本の十字架にあげられた3人の死刑囚は、皆同類に思われたかも知れません。特に真ん中に掲げられている「ユダヤ人の王」という罪状は、ローマ帝国に対し反乱を企んだ首謀者が好んで名乗った名前でもあるため、この3人は皆、ローマ帝国に反対したために処刑されているように思われたでしょう。
 しかし実際はそうではありません。真ん中の十字架に架かっておられる方は、両脇の十字架に磔にされている犯罪人たちの罪も執り成して下さる方です。しかし、この2人にそのことが分かっている訳ではありません。32節の最後に、この2人も主イエスを激しく罵ったことが語られています。このことは、同じ死刑の苦しみを味わう死刑囚同士だからと言って、気心が通い合う訳でないことを表しています。2人の罵りの言葉はここに出てきませんので定かなことは言えませんが、しかし2人は政治犯ですから、主イエスが本当に王であるのなら、どうして配下の者たちに命じて自分たちを救い出しに来てくれないのかと不満を抱いたに違いありません。それは誠に身勝手な願いですが、しかし2人は、その願いを実現してくれない無力な者として、中央の十字架に架かっているユダヤ人の王を罵っているのです。この2人の行いは不毛なことです。2人は自分の行ったことの報いを受けていて、もう間もなく自分自身の人生の時が尽きてしまいそうな時に、尚、自分の思い通りになっていないことに不満を持ち、その不満を主イエスにぶつけているのです。それはまるで、迫り来る死の恐怖を直視できず、そこから気を逸らすかのような姿です。
 本当ならば、中央の十字架に架かっている方は御自身の民の罪を赦すために自ら苦しみ死に赴いてその民の罪を赦して下さる方なのですから、両脇の囚人だけではなく、すべての人がその行いに感謝してもおかしくないはずです。むしろ、そうするのが本当だろうと思うのです。しかし、誰も感謝しません。自分の罪がこの方によって赦されるなどとは、誰も気がついていないのです。

 そしてこの光景は続いていきます。通りすがりにこの十字架の光景に出くわした人は、一様に驚きながら、このユダヤ人の王の無力さを嘲り、嘲笑しています。29節30節に「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』」とあります。「おやおや」と訳されていますが、原文では「うあー」と書いてあります。つい昨日まで神殿の中庭で人々を教え多くの群衆にも人気のありそうだったラビが、今日はここで処刑されていることに気づいて驚いているのですが、しかしその無力さを嘲っています。
 そのように主イエスを嘲る人たちは、昨日までの主イエスの姿を知っていました。主イエスの言葉を聞いていたけれど、しかしここで主を嘲るとすれば、実はこの人々は、自分自身が力と成功を求めていることになるのです。力を求める人にとって、なぜ主イエスが有難いのか。それは、主イエスの言葉が自分に力を与えてくれそうだと思うからです。その時には、主イエスが伝えようとしている神は自分に力を与えてくれる打ち手の小槌のようなものに感じられています。力を与えてくれるならば、その限りにおいて有り難がりもしますが、思うように力を与えてくれないとなれば、反発したり嘲ったりするようになります。通りすがりの群衆の姿は、主イエスの周りにいて主イエスを知っていた群衆の中にも、そういう人たちがいたことを表しています。
 しかし主イエスは、そういう人々に対しても、更には祭司長たちや律法学者たちといった、明からさまに主イエスに敵対する者たちに対しても、神の御前で罪の執り成しを行う王として十字架に架かっておられるのです。

 今日の箇所から聞こえてくるのは、私たちの信仰や敬虔な思いを鼓舞するような言葉ではありません。御自身の民のために執り成しの御業をなさりながら、しかし誰からも理解されず、感謝もされず、却って嘲られ罵られている主イエスが、中央の十字架に架かっておられるという事実だけが語られています。マルコは、この事実がすべての者のためにあるのだということを表すために、語っています。

 この箇所を聞く時、翻って、私たち自身はどうなのでしょうか。私たちは、聖書のこの場面の一体どの辺りにいるのでしょうか。自分はここにいる大勢の人たちとは違う、自分は十字架の上で無力に死んでいくように見える主イエスを心から愛し敬うことができると、私たちははっきり言えるでしょうか。もしかすると私たちは、そう言えないかもしれません。また、このことを突き詰めて考えるならば、主イエスの十字架が自分のために起こったことだと、私たちはもしかするとまだ本当には分かっていないところがあるかもしれません。
 しかしそれでも主イエスは、すべての者のために、確かに私たちのためにも、「ユダヤ人の王」として、真ん中の十字架に架かっていてくださるのです。「御自身に属する者の王として、確かに主イエスは神の前に執り成しの御業をなさってくださっている」こと、このことがこの箇所から最後に聞こえてくるのではないでしょうか。お祈りを捧げましょう。

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